小樽市議会議員 秋元とものり-今日も1日-今いる場所で勝て

「小樽市議会議員 秋元とものり」の今日一日の活動と感じた事を率直に紹介するブログです。

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(19)歌碑・記念碑 田中五呂八句碑

(19)歌碑・記念碑

田中五呂八句碑です

田中五呂八(たなかごろはち)

本名次俊は、明治二八年(一八九五年)釧路に生まれた。

大正六年東北帝国大学札幌農科大学(現北大)に入学したが、都合で中退した。

大正八年、川柳選者となる。同一二年「小樽川柳社」(後に「川柳氷原社」と改称)

を興し、新興川柳誌「氷原」を創刊した。

同一五年、小樽新聞社に入社。昭和三年「新興川柳論」を発刊、現代川柳の指針となった。

新興川柳の祖といわれる。

句碑は、全国の川柳愛好者らの手により、平成五年五月二十三日、住吉神社に建立された。


 碑文は「人間を 掴めば 風が 手にのこり」 

田中五呂八-1  田中五呂八-2

(18)歌碑・記念碑 包丁塚

(18)歌碑・記念碑は

包丁塚です

包丁塚-1

長い間の役目を終えた包丁に感謝を込めて塚を建て奉納し供養しようと、

北海道全調理師会小樽支部が準備を進め、昭和六一年一〇月一五日住吉神社境内に

建立された。

塚に納められる包丁は、主として引退したり、死亡したりした料理人の役目を

終えた包丁で、碑の裏側の深さ二メートルほどの穴に納められる。

毎年秋、供養祭と奉納式が行われる。

塚は日高福山石、幅一・五メートル、高さ一・七メートル、奥行き四〇センチメートル、

重さは約四トンの巨石である。

題字は前小樽市長・志村和雄の揮ごう、

碑文は小樽割烹調理師会顧問・佐原初三郎の撰文、

筆で「大任を果たした包丁を塚に収納し、魚鳥菜の供養とともに深く感謝」と誌されている。

包丁塚-3-1  包丁塚-2

(16)歌碑・記念碑 物故船員慰霊碑

歌碑・記念碑(16)は
物故船員慰霊碑


物故船員慰霊碑


商船で、漁船で、また戦争で海の犠牲者となった小樽関係の船員は碑建立時およそ

三〇〇人といわれた。

元船員の親睦団体である「かたふり会」は毎年、亡くなった船員の慰霊祭を続けていたが

十年目を迎えて、慰霊碑の建立を計画、建設期成会を結成、関係各方面からの募金

を基に昭和四十六年八月二十日完成し除幕式を行った。

場所は手宮公園NHK送信所向かい、海の物故者の安らぎの地にふさわしく、

石狩湾を一望し、手宮公園の林に囲まれた静かな高台である。

碑は、台座を含め高さ約二・七メートル、「物故船員慰霊」の文字が

小樽市長・稲垣 祐の筆により彫られている。


物故船員慰霊碑-3  物故船員慰霊碑-2

(15)歌碑・記念碑 尼港殉難記念碑

歌碑・記念碑(15)は

尼港殉難者追悼碑です

尼港殉難者追悼碑-3  尼港殉難碑-3



小樽港を見下ろす手宮公園頂上広場の正面に「尼港霊場」がある。

ロシア革命直後の大正九年五月二十四日、ソ連領沿海州黒龍江畔の

ニコライエフスク(尼港=にこう)で日本人居留民約七〇〇人が赤系バルチザンに

虐殺される事件が起きた。

この中には、ロシア革命への干渉を目的に行われた「シベリア出兵」で駐留していた

日本兵も含まれていた。

居留民の多くが、定期船の発着港であった小樽から出港した縁で、遺骨は同十三年

小樽に運ばれ、八月手宮公園納骨堂に収納され、十月「尼港殉難者追悼碑」が

小樽市によって建てられた。

尼港殉難者追悼碑は、昭和十一年十二月、藤山要吉が慰霊のため、

自費で建て直し整備した。

「義列千載」の文字は、当時の征討司令官陸軍大将・町田経宇、撰文は

小樽高等商業学校教授・卜部岩太郎、書は、雪畦山田実丸である。

長く尼港霊場保存協賛会が所有していたが、昭和二十九年十一月二十四日付けで

市に寄付された。

毎年五月二十四日、慰霊祭が催されている。

平成元年十月、市は、建設省の都市公園内に納骨塔はふさわしくないとした指導を受け、

遺骨を中央墓地に納めた。

また殉難追悼碑を記念碑に改めた。

尼港殉難者追悼碑-1  尼港殉難者追悼碑-2  尼港殉難者追悼碑-4

以前紹介した藤山要吉が建立したんですね。

この碑があること自体初めて知りました。手宮公園の頂上付近にありますが

ちょっと分かりにくいのでは? 手宮公園頂上駐車場のさらに上に位置します。

この碑をしることによって、過去の悲しい歴史を知りました。

尼港殉難碑-3         尼港殉難碑
すぐ隣に建つ尼港殉難碑    上の方には「義列千載」の文字が

(14)歌碑・記念碑 技師青木政徳之碑

歌碑・記念碑 (14)は

技師青木政徳之碑です

技師青木政徳  技師青木政徳-1

 技師青木政徳之碑

小樽港が本道開拓のための重要港湾として位置付けられ、国による本格的な

建造工事が決まったのは明治二十六年であった。

初代小樽港湾事務所長となった広井 勇が、その右腕として招いたのが青木技師である。

琵琶湖の疎水工事で活躍した青年技師青木は、広井と共に北防波堤工事に全力を注いだ。

明治二十九年、工事現場の責任者となるや自ら海底に潜り、防波堤築堤のための

基礎調査を行いまた作業を監督したという。

その無理がたたり、工事完成前の明治三十三年五月三十五歳の若さでその生涯を終えた。

明治四十四年八月、小樽港の防波堤を見下ろす手宮公園に当時の小樽区が建立した碑は、

高さ二メートル、幅一メートルの一枚岩で、若くして散った青木の功績をたたえている。

「技師青木政徳の碑」の題字は北海道庁長官・北垣国道が、工学博士・田辺朔郎が撰文、

書家・大邸 屯が名筆をふるった。

手宮公園正門登口左斜面 明治四十四年(一九一一年)建立
技師青木政徳-2

だいぶ碑文が読みにくくなっております。

この碑があったのは知っていましたが、このような若い技師の方が関わっていたことは

知りませんでした。


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